世界のはんこ

古代メソポタミア

紀元前5500年頃に、今日の印章の起源となる「印」が創り出されました。壮大な古代文明を築いたメソポタミアの人々が石や粘土、貝殻などを素材として個々の「印」を彫り、自らの証として用いたのです。当時の人々は「印」には神聖な力が宿ると信じ、これを穀物や織物など大切な所有物に押し、護守の封印としたのです。そのかたちは、当初はスタンプ形式でしたが、やがて円筒状(シリンダー型)のものが登場してきます。その連続した印影に永遠の神聖な力を感じ取ったのかもしれません。これを発明したのはシュメール人で、年代的には紀元前3300年頃といわれています。ここには魚や獣などから国王や神話まで多彩な内容が描かれています。円筒印章は次第にかたちを変えて、樽形となり、穴をあけて金・銀線を通し、指にはめるようになります。これが、指輪印章のはじまりではないかと考えられています。

紀元前3000年のエーゲ文明

歴史上初の海洋文明を生み出し栄えたエーゲ文明でも「印」が用いられています。紀元前3000年頃の初期のものはピラミッド形や円錐形でした。印材には今日と同じように象牙が用いられ、凍石も使われました。中期(紀元前2700年~紀元前1600年)には三稜形や四稜形のものが登場してきます。紀元前1600年以降の後期を迎えると、彫刻の技術もさらに高まり、水晶を印材に用いるようになります。描かれた内容は、初期・中期は象形文字が主流でしたが、やがて動物、魚、舞踊、神々など絵画的で複雑精緻な絵柄が現れてきます。表現もきわめて自由奔放で、芸術的な視点から見れば、古代メソポタミアやシュメール人たちが創り出した印に優るとも劣らない高水準に達していました。紀元前の時代から印章は神聖なものであると同時に、際立つ芸術品と見なされていたことを、これらの印によって推測することができます。

ギリシャ・ローマの美の印

紀元前5世紀の頃のギリシャ・ローマ世界では、甲虫をかたち取った背中の丸い「印」が広く用いられていました。はじめは神々の姿をモチーフにしたもが多く見られますが、次第にギリシャ・ローマならではの感性や美意識を反映したエロス(ギリシャ神話の愛の神)やアフロディア(エロスの母神と恋愛の神)なども出現してきます。これらの印はインタリオと称され、貴石などに陰刻で描かれていました。やがて、ローマ時代になるとカメオと呼ばれる陽刻も多用されるようになります。その多くは装飾としての意味合いが強く、当時の名工たちによって数多くの作品が創り出されました。インタリオもカメオも共に際立つ芸術性を誇り、そのごの世界の「印」の文化に大きな影響を与えていきます。ギリシャ・ローマ文明は印章においても古代文明のひとつの頂点にあったといえるのではないでしょうか。

古代中国の印綬

古代中国で「印」が歴史上に登場するのは、紀元前11世紀の殷の時代です。大小の銅印がつくられ、神聖なものとして崇められました。官印の他に私印も生まれています。漢の時代になると粘土で封印した上に押す形式の印も用いられるようになっていきます。また、この時代に印制が発達し、印すための「印」ではなく、地位や権力の象徴としての「印」が誕生します。これを象徴するのが日本に贈られた「漢委奴国王(カンノワノナノコクオウ)」の金印です。これらの印は文面の他に材質や印に付けられた紐(綬)の色にまで細やかな決まりがあり、それぞれ位や禄(俸給)を表していました。ちなみに、印綬とは印それ自体だけでな紐も含めたものを意味しています。これらは、「漢委奴国王」の金印が示すように、中国国内だけでなく異民族の外臣(従属する国々の王など)にも贈られていました。卑弥呼の金印も同様であったと考えられています。

パスパ文字

水底に沈んだ歴史的な遺跡や遺物を対象とする水中考古学でも、印章に関わる貴重な発見が報告されています。1281年に起こった蒙古襲来にまつわるものです。この時、圧倒的な武力によって壊滅寸前であった日本は、奇跡的な暴風雨によって難を逃れますが、その嵐によって沈没した蒙古軍の船の中から軍隊が所持していたと推測される銅印が引揚げられてます。1981年のことです。この印章の横には1277年の刻印が印されており、まさに往時のものであったことがわかります。印の文字は元の皇帝フビライがチベットの僧侶であったパスパに命じてつくらせたパスパ文字です。ちなみに、この印章は最前線の部隊の隊長に与えられたものであったと考えられています。約700年の時を越えて再び出現した印章に、はるかな歴史の足跡を見ることができるわけです。

欧米のサイン

現代の欧米では「自らの証」としてサインを用いますが、サインが主流になるのは19世紀以降になってからです。中世のヨーロッパでは読み書きができる人々は限られており、書面には印章が用いられていました。サインというものが公的な次元に現れてくるのは15世紀から16世紀にかけてであり、その後もサインと印章が併用されていきます。このように見ていくと、世界の文明がはじまって以来、印章は「自らの証」として社会生活の中で欠くことのできない大切な存在であったことが解ります。古代メソポタミアで誕生した印章は、オリエントからエーゲ文明、ギリシャ・ローマ文明によってヨーロッパに広がり、またアジアにおいては古代中国を経て日本に伝えられていきました。今日、私たちが手にしている印章には、実に7500年にも及ぶ世界の文化のはるかな歩みが深く刻まれているのです。